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soueggs’s diary

社会不適合者たちの駄文交換会

新説『赤い実はじけた』追補編

皆さんは『赤い実はじけた』という小説をご存知だろうか。

思春期の心の動きを、赤い実が「パチン」とはじけるという色彩豊かな鮮烈さをもって描いたこの小説は、ほんの数年前まで小学校の教科書に採用されていたこともあり、印象に残っている方も多いはずだ。

しかしながら、作者の名木田恵子が、この10ページに満たない、だが美しい物語を書くにあたって、実に4,000枚に及ぶ膨大な設定資料を作成していたことは一般にはあまり知られてはいない。

我々のよく知る6年生の綾子ちゃんと魚屋の哲夫の物語は、『赤い実はじけたサーガ』とでも呼ぶべき壮大なる歴史譚の、実はほんの一部でしかなかったのである。

設定資料はこんな一文で始まっている。
「小説を書くのに宇宙のなりたちから語る必要はない。しかし私はあえてそれをやってみたい」
この言葉通り、名木田は原子核合成やビッグバン理論、ひいてはフリードマン宇宙論の独自解釈など、冒頭から異様な偏執を見せている。

生命の萌芽、いくつかの文明の勃興なども同様に、恐ろしいまでの想像力とおびただしい量の参考文献とともに語られる。

そのようにしてやがて近現代の世界への言及が為されていく。成熟した国家の誕生、避けることのできない戦争などほとんどの事柄が現実の歴史を踏襲しているが、ここで非常に興味深い変化が訪れる。

なんと、『赤い実はじけた』の設定上の地球はこのとき一度滅亡しているのだ!

資料中のおおまかな年表によれば、この滅亡は、綾子が魚屋の哲夫に「パチン」となる8,000年ほど前の出来事であった。

滅亡の原因は地殻変動によるポールシフト現象と、それによる壊滅的な異常気象(それぞれ“イザナミ”“イザナギ”と名づけられている)となっており、これにより地球上の生物の90パーセントが死滅したという。

残されたわずかな人類は絶望の縁に立たされ、深刻な食料不足から互いに奪いあい殺しあった。
名木田曰く、「人は人であるがゆえに慈しみ愛し合うが、人を人たらしめる人間性は狂気と野蛮さに血塗られている」。

彼らはどのように生き延びたのか?

彼らを暴力と死の連鎖に追いやったのは飢餓と不安からくる“恐怖”であった。

当時人類史上最大の発明と呼ばれた、医療用ナノマシン移植技術。
資料によると、人体に移植されたナノマシンは有機代謝により半永久的に自己増殖・修復が行えるほか、脊髄系に移植することにより“感情の機械的なコントロール”ができたという。

個人の尊厳や生命の定義を侵す恐れのあったナノマシン技術を、人類は“恐怖”を克服するため、このときはじめて使用することとなる。

そしてそれは恐怖のみならず人間的な感情のほぼ全てを抑制してしまう諸刃の剣だった。

人類は生きるため、自らの人間性を剥ぎ取る道を選ばざるをえなかったのである。

しかし、希望は残っていた。

前文明最後のナノマシン研究者、ポール・ライトマン博士は“人間性”と呼ぶべき感情の成り立ちの基本構造を解析し、データベースとしてナノマシンに転写することに成功したのである。

人間性を転写されたナノマシンは、感情抑制体とは別機構として人体に組み込まれることとなった。

イトマン博士は、いつの日か人類が危機を脱し抑制体の制止を振り切って豊かな感情の波に身をゆだねられる環境が訪れたとき、はじめて転写体が作用するよう設計した。

イトマン博士が人間性を保存したナノマシン集合体を、“レッドオーブ”つまり“赤い実”と名づけたのは言うまでもない。

そうして人類は世代ごとにナノマシン移植を繰り返し、人間性の鮮やかな爆弾を抱えた屍となって未曾有の大災害を生き抜いたのだ。

ここであらためて本編を読んでみたい。
綾子が暮らす地球の環境は災害前と変わった様子はない。人が人として平和に暮らすのに適した環境と言えよう。

綾子はおつかいに出た先で、魚屋の哲夫と出会い、きらきらと目を輝かせて夢を語る彼を見て、「パチン」と内なる大きな音を聞く。

綾子が体験した淡くしかし熱い感情の発芽は、誰もが一度は経験し、すぐに忘れてしまうものかもしれない。
しかしそれこそが、人が人として数千、数万年と世代を紡いでいく中で決してなくしてはならないものなのだ――――。

名木田の残した膨大でいささか偏執な資料は、一つの物語をまた違った魅力ある作品に仕上げているのである。

『赤い実はじけた』本編はこちら
http://s.maho.jp/book/e20955hd72ba3081/3767907001/1/



【マレーボネ】