soueggs’s diary

社会不適合者たちの駄文交換会

自然という、作為について

なんとなく、このブログのことを思い出す夜がある。

 

それは、早い時間から酒に溺れた日。

またそれは、仕事に疲れ果てた夜更け。

またそれは、女性と別れたあとの電車のなか。

 

 

久々に訪れるその廃墟には(もともとこの場所に活気があったことはないが)

新規の投稿で、悲痛な叫びが書かれていることがある。

くだらない笑い話をマジメ(なフリをして)に語るやつがいる。

軽やかな駄文の亡霊が、うようよと集まっていることがある。

 

 

いまだ、人を殺したという文章が載っていないことだけが救いではあるブログだけども人生の滋味のようなもの――それがあふれた投稿というゲロが、終電後の最寄り駅と同じくらいに、軽快に放たれる場であればよいなと思う。

 

 

最近の僕のことを話そうかな。

 

この年齢になって、つまりは30歳になって(もひとついうと、もう31歳になる秒読み中なのだが)恋愛における“自然消滅”という事象を久々に経験した。「社会的に」とか「社会人としての」とか、そういう枕詞をつけたモラルを当然のように突きつけられる年齢になって、だ。学生時代の話ではない。

 

自然消滅なんていうけれど、“付き合う”という選択をしたふたりにおいて、その関係は自然には消滅しない。そこには確固たる“作為”が存在する。

 

電話をすれば、あるいはLINEのスタンプをひとつ送れば、僕たちの関係は“自然消滅”ではなくなるはずだし、それはそんなに難しいことではないと思う。

 

だけど僕らは作為的な“自然消滅”を選んだ。なぜだろう。

 

めんどくさい。もういいかな。何かをはっきりさせるのはちょっと、いまはダルい。

 

そういう発想が許される(気がする)最後の土俵、それがもはや恋愛だけになってしまった気がする。甘えだろうか。その延長に、今がある。

 

 

“自然消滅”を“自然消滅した”と言い切るとき、そこにはちゃんと終わりがある。

そんなつまらない話を、取材後の送りのタクシーのなかでふいに年若いタレント(の卵と言ってもいいだろう)にしたときに、「オトナはオトナでめんどうなんですね」と寂しそうな表情で言われた。

 

 

 

 

「でもおもしろい。僕でよければ、慰めますよ」

 彼の表情には、さっきの寂しそうな何かは消え、ある種のいたずらな熱が見てとれた。

 

 

 

 

彼の家の前に、タクシーが到着する。

“自然発生”という言葉にも、もちろん“作為”があることを、僕は知っている。

 

【3号】